でも、だけど

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雷鳴が聞こえた。さっきよりも近づいている。
今日はひどく暑かったから、夕立もまるで自棄を起こしたみたいに激しい。

大学からここまで傘もささずに雨に降られたせいで、
髪はすっかり濡れそぼり、毛先からは雫が滴っている。
それでも私の頭は少しも冷めることはなく、微熱を宿したままぼんやりとしていた。

佐原のあとをついて彼の自宅アパートまで来るあいだ、
冷静になれるだけの時間はたっぷりとあったはずだというのに。

頭の片隅に、ふと有馬のことが浮かんだ。
彼と彼の恋人も、この夕立に降られただろうか。

遠くから見ただけだったけれど、彼女ははにかむような笑顔が可愛い人だった。
有馬が好きになった人ということは、きっとよく気がつく子に違いない。

もしかしたらきちんと折り畳み傘を用意していたりして、
小さな傘で二人、肩を寄せ合って帰ったかも知れない――と、
考えているうちに前を歩いていた佐原が立ち止まった。

アパート二階の突き当り。

ジーンズのポケットから出された鍵で、静かにドアが開けられる。

何百回目とも知れず、やっぱり駄目だ、帰らなきゃと思った。
けれど体は頑として動こうとしない。
失恋したての心は理性とは裏腹に、誰かに甘えたくて、人恋しくて、
目の前の背中にすがりつきたいと駄々をこねている。

だって私の密かな片想いを見破ってくれたのは、世界中で佐原ただ一人だけだったのだから。
誰にも勘繰られることさえなかった拙い恋が、佐原に気づいてもらえた途端、
失って傷ついていいものになったような気がした。

だからといって、それが今の状況を正当化する理由になんてならないのはわかっている。

でも、だけど――佐原がこちらを振り返る。



「糸居さん」



思いのほかまっすぐに目が合った。

暗に「どうする?」と聞かれたのだとわかって、
私は黙ったまま玄関に足を踏み入れた。

彼が押さえていた手を離してドアが閉じると、室内の静けさがぐっと深みを増した。

部屋の明かりは点いていないし、
カーテンが閉まっているようであたりの様子はよく見えない。
佐原のスニーカーを踏まないよう目を凝らし、下を向いていると、音もなく腕を掴まれた。

暗がりから聞こえてきたのは、咄嗟に息を飲んだ私とは対照的な、普段通りの声。



「寒くない?」
「あっ、うん、全然。今日、ほんと湯気出そうなくらい暑かったもん。
 濡れてるくらいがちょうどいいかも」



まぬけな返答をした私の手を、佐原が引く。
慌てて靴を脱ぎ、あとに続いた。

考えてみれば、一人暮らしの異性の部屋に入ったのは初めてだった。

大学の友人はほとんど実家暮らしだし、
そもそも男の人の部屋に一人で入る機会が訪れたことなんて、
これまで一度たりともない。

物珍しさもあってあたりを見回していると、隣から苦笑いが聞こえた



「特別なものはなにもないよ」
「ごめん、つい。一人暮らしの部屋に入るのって初めてだから」



そっか、と軽く答えて、佐原はソファーに腰を下ろした。
手を取られたまま、私も何の気なしに隣に座る。

室内はこざっぱりとしていて、家具も、テレビの置かれたラックとローテーブル、
それにいま座っているソファーくらいしか見当たらない。
彼らしさを感じる淡泊な部屋だけれど、寝具もなく生活しているのかとふと疑問に思った。



「……普段、どこで寝てるの? もしかして床にお布団敷いて?
 でも、押入れはなさそうだけど」
「このソファー。ベッドにもなるやつだから」
「あ、ああ、そうなんだ……。へえ、便利だね……」



ぎくりとしたのを隠したつもりだったけど、佐原のことだから勘づいただろう。

ここがベッドだと知って、私が思い出したように意識し始めたことを。
ほんの少し間が空いたから、笑われたかもしれない。



「……えっと。その……」



なにか喋らなきゃと考えてたところで、なにも思い浮かばなかった。

外から絶えず届いているはずの雨音が、やけに遠い。
佐原と一緒にいて、沈黙を息苦しく感じたことなんてなかったのに、いまばかりは違う。

内心困り果てていると、繋がれていた手が離れ、ふと髪に触れられた。



「けっこう濡れたね」
「え、あ……うん」



落ち着き払っている佐原に対抗するような余裕は、
これっぽっちも残されていなかった。

軽口を叩こうにも、緊張して声が出ない。
体ごとこちらを向かれればなおさら、体が石みたいに固くなる。

そんな私の顔を覗きこみ、佐原は柔らかな笑みを浮かべた。
普段、冷たい奴だと思われがちな彼の、初めて見る表情。



「目が赤い。あんなに泣くから」



ずきんずきんと疼くように胸が痛んだ。

失恋を思い出して痛んでいるはずなのに、涙は出なかった。

眦をなぞっていた指先が頬に下り、息がかかるほど顔が近づく。
なにをされるかわかっていながら、私は最後の距離が詰められるのを、
身動きもせずに待っていた。



「……ふ、っ」



体の中にも雷があるんだ。

唇が重なった瞬間、静電気でも流れたみたいに、
触れたところがちりちり痺れた。

硬直したままでいる私のうなじを、佐原の手がかき抱く。
いつもの佐原からは想像つかないくらい、その手は熱い。
始めこそ目を合わせていたけれど、どちらともなく瞼を閉じた。

くちづけられるほど鼓動が速まって、呼吸が追いつかない。
息苦しくて心臓が早鐘を打つ。どんどん苦しくなる。
けれど、やめないでほしい。

ほかの人のそれと比べようもないけれど、
キスがこんなに気持ちのいいものだとは思ってもみなかった。

もっとしてほしくて、つい、ねだるように佐原の服をつまんだ時、
大きな落雷の音が響き渡った。



「……落ちた」



唇を触れさせたまま呟かれると、くすぐったくて堪らなかった。

窓の外からは立て続けに、激しい雷の重低音が響いてくる。
体の奥底が、まるで共鳴するみたいにふるふる震えた。

口の端に佐原の舌先が触れて、私は薄く唇を開けた。
遠慮なしに潜りこまれるとわけもなく感情が高ぶって、泣きそうになった。

佐原のキスは柔らかくて温かくて、穏やかでゆっくりで、
なのに深くまで探ってくるせいで、夢中で求められている気持ちになる。
それがただの錯覚だとわかっていても、心の底から満たされていくように思えてしまう。

この部屋をあとにしたとき、きっと私は虚しさに襲い掛かられるはずだ。
恋人でもない佐原とこんなことをして、と後悔するかもしれない。

それはわかりきったことだったけれど、あの他人に無関心な佐原が、
私をうんと甘やかしてくれていることが、無性に嬉しい。

息継ぎの合間、心なしかかすれ気味の声が囁きかけてくる。



「……糸居さん。服、脱いで」
「え? ……じ、自分で?」
「うん。全部」
「そっ、そんなことできない」



いくらなんでも無茶な要求に、私は何度も首を振った。



「無理。無理だって」
「手伝うから」



たぶん、どう拒んでも佐原は折れない。
私が本心から嫌だと言わない限り。

拒む私をよそに、彼は私の手を取りながらシャツの襟元に触れた。



「や、佐原……っ」



ぷちん、ぷちんとボタンを外した指は、腰まで下りて裾を捲った。
ノースリーブのシャツだけではなく、ジーンズも取り去られた。

ほとんど佐原がやっていて、私はただ、
その動きに自分の手を添えているだけだ。

腕を振りほどくでもなく、されるがまま、操り人形のように。

こうして身をゆだねている時点で、
みずから肌を晒すのとなにも変わりないと思いながら。

シャツの下に着ていたキャミソール、
このあいだ買ったばかりの空色のブラジャー、揃いの薄っぺらいショーツ。
全部が床に落ちたところで、ふと、視線を感じた。



「ほら。できた」



かあっと顔が熱くなった。
一糸纏わぬ姿を見られていることより、
結局拒まずにいたのを見透かされたことが恥ずかしい。



「やだ。こっち見ないで」
「無理言うね。見たいから脱いでもらったのに」



からかうでも、冗談めかすでもない佐原の言葉が、体のあちこちに突き刺さる。

当然、羞恥は湧くけれど、
逸らされることなく注がれる視線は奇妙なほどに心地よく、
私は体を隠していた腕をそうっと下ろした。

ソファーにもたれた私を、佐原の目が隅々までなぞっている。

どくどく脈打っている胸元、乳房、うっすら鳥肌が立っているところも。
沈黙に耐え切れず、それとない嘘をつく。



「……佐原。ちょっと寒い」
「ああ、ごめん。なんか綺麗で見惚れてた」
「そ、そーいう、お世辞はいいから」
「こんなときにお世辞言えるほど口は上手くないよ」
「でも、べつに、色気のある体じゃないし」
「確かに。そういう感じではないね」



むっとしたのがわかったのか、佐原がくすりと笑った。



「色白だから、ぼんやり光って見えたのかも」
「恥ずかしい。恥ずかしすぎる」
「気にすることないよ。お互いさまなんだから」
「そんなわけない。佐原は余裕あるじゃない」
「……余裕があったら、こんなことしてないと思うけど」



そう言って、佐原は私の目の前にしゃがんだ。
ソファーに腰かけたままの私は、自然と彼を見下ろす格好になった。

膝に、佐原の手が乗った。くっと力を入れられて、私は慌てて声を上げた。



「そ、の。あの、こういうものなの?」
「なにが」
「こういうことするときって、みんな、こんなことするの?」
「さあ。他の人なんて知らないよ。俺が見たいだけなんだから」
「み、見たいって」
「恥ずかしいところも、みっともないところも、全部。
 だから、泣いてたっていいよ。一人で泣くよりはましでしょ」
「なにそれ……っ」
「それに、見て欲しかったんじゃないの」



佐原の手が私の脚をぐっと割り開いた。
同時に鼻の奥がつんとして、手のひらで顔を覆い隠した。

夕立に降られてよかった。

そうじゃなかったら今頃、私は佐原の言う通り泣いていた。
誰にも悟られないよう、こっそり、ひとりで。
そうして泣き腫らした目を、蒸しタオルで温めたりして平静を装いながら、
誰にも気づかれずに恋が終わることにまた、ちょっと傷ついたりしていただろう。



「佐原……私って、ほんと馬鹿だよねえ……っ」



私はついさっき失恋した。
高校時代からずっと好きだったというのに、
ただ見つめ続けただけで告白さえできずじまいの、
おもしろくもなんともない失恋だった。

唯一の救いは、恋の終わりを佐原に見届けてもらえたこと。



「いいんじゃない? 糸居さんの馬鹿は、嫌な感じがしないから」
「……馬鹿なのは、否定してくれないんだ」
「その面倒くさい感じも、嫌じゃないよ」
「っ、さ、はら……」



内腿にくつくつ笑う唇が触れ、私の泣き声は勝手に色味を帯びていった。



「糸居さん、鼻水が垂れてぶさいくになってるよ」
「うるさい、うるさいぃ……」
「ほら、足、もっと力抜いて」



両膝の間に佐原の体が挟まっているせいで、足は閉じられない。
太腿をついばまれて、こそばゆさに身をよじった。



「ふっ……くすぐったい……」
「くすぐってるからね」
「は、くふふっ、ふ、あ、まって……」
「待たない」



ふいに膝の裏を掴まれた。
ぐっと持ち上げられて、ソファーに沈んでいたお尻がずり落ちた。
佐原の吐息が、どんどん足のつけ根に近づいてくる。



「や、待って。さすがにそこは」
「……大丈夫。見えないよ」
「……嘘だ」
「ろくに触ってもないのに濡れたりなんか、してるわけがないから大丈夫」
「……嘘だ」



佐原の手が、茂みの中に潜った。
谷間をなぞったその指先がぬるりと滑ったのは、私にもわかった。



「ああ、ごめん、嘘だった」
「……そんな、なんで……っ、あ」



ぬかるみを指先で広げられると、空気に触れてすうっとした。
おもむろに佐原は、そこに顔を寄せる。



「やっ……!」



拒む間もなく、べろんと蜜口を舐められた。
咄嗟に佐原の頭を押さえる。
意外と柔らかい髪の毛に指を絡め、動きを止めようとする。



「あ、あ、さはら……っ」
「痛いの?」
「ち、がう。でも……っ!」



舌先で秘芯に触れられると、腰が跳ね上がった。
そこは、こんなに敏感なところだっただろうか。
試しに自分で触ることはあっても、たいして昂ぶりもしなかった場所なのに。
それが今は痛いほどじんじんしていて、舐められるたび声が出た。

待って待ってとうわ言のように繰り返すのに、
佐原はちっともやめてくれない。
それどころか、雫をにじませる谷間のごく浅いところに指を潜らせる。



「ふぅ……! 入、って……」



本能的な恐怖と欲情とが混じり合って、ぞくんとした震えが走った。
同時に敏感な芽に吸いつかれ、宙を掻く足先ががくがくわななく。



「だっ、だめ、だめっ、それっ……! あたま、馬鹿になる……!!」
「いつもより?」
「っ、あ、ひどい、そーいうこと、言うの……っ!」
「冗談だよ。言ったでしょ。糸居さんが馬鹿なのは、嫌じゃないって」



佐原の指が、私の内側を掻いた。
舌が過敏な芽を転がし、ついばんで、何度も何度も吸いたてた。
佐原の頭にのせた手に、無意識のうちに力が入る。



「やあああっ! 変なの、佐原。だめ、お願い、おねがい!」
「……それじゃ、止めたいのかねだってるのかわからないよ」



とろけた秘部を啜る、耳を塞ぎたいほど淫らな音。
追い立てられて駆け上った先で、ふっと限界が訪れた。



「ひ、う、ん、ん――!!!!」



全速力で走ったときみたいに息が切れ、
瞼の裏に、光の残像がちかちか瞬いて見えた。

私のそこから、佐原がゆっくり口を離す。
けれど、私はまだ動けない。
ソファーにもたれたままぐったりしている私の体に、佐原がのしかかる。

暗がりに浮かぶ影がシャツを脱ぎ、ズボンを下ろした。



「……あ」



どろどろに溶けた秘部に、硬直したものがぴたりと触れた。
私もそれなり火照っているはずなのに、こわばったそれは、もっと熱い。
思わず身構えていると、ふっと笑い声が聞こえた。



「……これ以上はしないから、安心して」



意味を捉えきれずにいるうちに、佐原のそれは蜜の上を滑りだした。
やがて意図を理解すると、胸に小さな痛みが走った。

もしかしたら佐原は、私の初めての相手になるのが重かったのかもしれない。
失恋を慰めるために事に及べば、
おかしな情を移されないとも限らないのだから。

私は確かに、佐原ならいいと思ってここに来た。
そのはずなのに、未遂で終われることに、密かに安堵もしていた。

重たがられるくらいなら、体なんて重ねなくていい。
このまま最後までしなければ、友情にとどめを刺さずにすむ。
一線を越える手前なら、まだ私たちは友達だと言い張れる。

頭のひんやりしている部分から、なんてずるいんだと声がした。

本当は、誰に言われずとも理解している。

足元に引かれた一線は、綱渡りのロープと同じだ。
一歩でも足を踏み出してしまえば、もうあとには引き返せない。
私は傷心を癒す代わりに、大事な友達を失ってしまった。
目の前にいるのは友達の佐原じゃなく、
ひとりの男――欲情を宿した視線が、私を見ていた。



「ふ、あ……っ」
「擦られて感じてるの?」
「ん、うん」
「いやらしいね」



ただひたすら気持ちよかった。

閉じ合わせた足のつけ根に、佐原の熱を感じる。
擦りつけられたところに、火が灯るみたいに。
いつだって涼しい顔をしている佐原が、眉根を寄せて囁く。



「俺も、気持ちいい。糸居さんが溢れさせたのがぬるぬるして」



悦楽を含んだその声は、びっくりするほど色っぽかった。

さっき口でされたほどの刺激じゃないはずなのに、
佐原につられ、じれったさまで恍惚にすり替わる。

私の体を使って佐原が気持ちよくなっている。
そう考えるだけで、堪らない愉悦が沸き起こった。



「んっ、ん……っ」
「糸居さん。少し手伝って」



佐原は私の手を、下半身へと連れて行った。
誘導されるまま手のひらでこわばりを包まされると、
私は言われてもいないのに、もう片方の手もそこに添えた。



「佐原、気持ちいいの……?」
「ん。気持ちいい。すごく……、っ……」
「さ、はら。顔、見ててもいい……?」
「……どうぞ、好きなだけ。そっちも見せて」
「ん……見て……もっと」
「もっと?」
「……っ、も……っと。佐原に、見ててほしい……っ」



互いの額が触れ合った。
せわしない吐息が混ざり、頬を擦り寄せる。
伝わってくる佐原の体温が、どんどん熱くなる。
私の溢れさせたものと佐原のそれとが混じって、粘つく音が響いていた。

律動に揺さぶられていると、キスをしたい衝動に駆られた。



「……糸居さん」



鼻先に佐原の唇があたった。
私は顎を上げ、唇が降ってくるのを待った。

貪り合うようなキスには、佐原のかすれた吐息と、
果てるときのくぐもった声が含まれていた。


いつの間にか、夕立はとおり過ぎたらしい。

雨上がりの窓辺から、りぃりぃと虫の鳴き声がする。
つがうための誰かを呼ぶその声が、どこか寂しそうに響いていた。



*  *  *



「糸居!」



午前の講義を終え学食へ向かっていると、後ろから声を掛けられた。
すぐ、声の主が有馬だとわかる。
足を止め振り返ると、彼は小走りに近づいてあたりを見回した。



「なんだ、まだお前だけ? 佐原は?」



あの夕立の日から、私はまだ、佐原と顔を合わせられずにいた。
何事もなかった風を装うのが暗黙のルールじゃないだろうかと、
不慣れなことを考えているうちに、連絡さえできずにいる。



「あの講義、取ってるの私だけだから。でももうみんな来るんじゃないかな」
「そっか。俺も別だったからなぁ」



普段から示し合せて昼食を共にする友人たちの姿を探して、
有馬は周囲を見回した。
そのしぐさが、なんとなくそわそわとして浮ついているように感じた。



「どうかしたの? なにか用事でもあるの?」
「いや。たいしたことじゃないんだけど。
 ちょっとみんなに会わせたいやつがいて」



どきっとした。

面倒見のいい有馬のことだ。
きっといつもみたいに、新しく知り合った誰かを
仲のいい友達に引き合わせようとしているんだろう。

その誰かに、心当たりがあった。



「あ、佐原が来た」



こちらへと向かう人波の中に佐原を見つけたらしく、有馬は手を振った。
と同時に、ぱあっと表情を明るくした。

有馬だけじゃなく私もまた、佐原の後ろに見覚えのある女の子の姿を見つけた。

はにかむような笑顔が可愛い女の子。
手招きに呼ばれた彼女は、佐原を追い抜かし有馬の傍らに駆け寄った。

少し照れくさそうな二人の様子は、私の予想が正解だと教えてくれていた。

追い抜かれた佐原もまた、彼女が誰かを察したらしい。

特に急ぐことなく歩きながら、ちらりと一瞬、私を見た。
その目配せに応える前に、有馬が口を開く。



「ちょうどいいから先に紹介させて。この子、俺の彼女。
 バイト先が一緒でさ。学部が違うから会ったことないだろうと思って」
「初めまして」



近くで見た彼女はとても可愛くて、気さくな笑顔が眩しかった。

丁寧なお辞儀に合わせて、夏物のスカートがふわりと揺れた。
爽やかなパステルカラーの服装が、嫌味なく似合っている。
好きな色、だけどきっと私には似合わない。
そんなことを考えたせいか、自己紹介はうまく頭に入ってこない。

彼女がいったん言葉を切ったところで、有馬は佐原と私とを順に指さした。



「こっちの無愛想なのが佐原で、こっちが高校からの友達の糸居。
 ここだけの話、彼氏いない歴が年齢と一緒。すごい面食いなんだよな、糸居は」
「ちょっと有馬、変なこと言わないでよ」
「嘘、冗談。ほんとのこと言うと、高校の女友達の中で一番ってくらい信用できる奴。
 なんか困ったことあったら絶対に助けてくれるから」
「……そ、それは褒めすぎ……」



彼女に向く前、私は胸の内で深呼吸をした。
決しておかしな顔にならないように。
あちこちに揺さぶられている感情が、声に表れませんように。



「ええっと、糸居由紀です。彼氏ができないのはご縁に恵まれないせいで、
 面食いってわけじゃないです。
 あ、でも、カッコいい人は……もちろん大好物だけど」



冗談めかして言うと、彼女はくすくす笑った。
会話が途切れる間際、隣を見る。
次は佐原、と私が言おうとすると、彼はそれとなく私から目を逸らした。



「立ち話もなんだから、先に学食行かない?
 そろそろ席が埋まってくるし、みんなもそのうち来るんじゃない」
「ああ、そうだな」



有馬は頷くと、彼女を連れて歩き始めた。
二人の後ろに続きながら、私は密かに隣の気配を探っていた。

佐原は時折、前の二人からの問いかけに応じるくらいで、
私にはなにも言わない。私も、なにも言えない。

そうっと息を吐いていると、おもむろに佐原がこちらに肩を寄せた。



「糸居さん」



耳をくすぐったのは、あからさまに秘めごとめいた小声だった。
悪だくみをする、確信犯の声。
ぎくっとして顔を上げた私に、彼が囁く。



「――また慰めてあげようか」



いったい、どういうつもりだろう。



「……そんなこと」



必要ない。
そう言ってさっさと断ればいいのに、言葉が続かなかった。


佐原から顔を背けて前を向けば、有馬と彼女の眩しい背中がある。

片想いにはけりをつけたつもりでいるし、
似たような光景はこれまでにだって何度も見てきた。

それでも心についた折り癖は、簡単には消えないらしい。
皺くしゃになったところがひりひりする。

その痛みを我慢できるかといえば、きっとできる。


でも、だけど――体がまだ、佐原の温もりを覚えていた。
その腕に包まれると心地よくて、向けられるまなざしは鋭かった。

今もまた、返答を求める視線が私を射貫いていた。


足元がぐらぐら揺れている。
綱渡りの線上から足を踏み外そうとしている私を見て、
彼は一体、なにを思うのだろう。


耳の奥で、虫の音みたいな耳鳴りがした。



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